KanaOhtsuki * One day One picture

■大槻香奈の日記■

20101020

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友人の話していた言葉を、ふとした瞬間によく思い出す。
「科学の進歩の先にあるものは絶望しかない」みたいな事だったか。

何が大変か、その中身や意味合いが違うだけで、いつの時代にも生きていく大変さはあった。
自分の祖父母の若かりし頃の話を聞けば、自分がその時代を生きていなくとも想像できる事がある。
だけど、生きていく為の便利な機械や道具が今ほどに無い時代であれば、
生きていく事そのものが大変である反面、動物的ないきいきとした「生」をきっと誰もが持っていて、
その時代にしかない命を生きる喜びがあったのかもしれないと思う。

私が生まれてから今までの時代は、とにかく何でも急激に便利になっていくし、
私個人の話をすれば、食料も娯楽も並にあって比較的健康で、
命を生きることそのものは簡単だったように思う。
だけどその分、振り返ってみればなんだか、
自分の何かをごっそり削ぎ落とされたような、絶望的な気持ちになる事が度々あって仕方が無い。
生きる苦しさと呼んでいいものなのだろうか。
とにかくそれは、「自分の死は当分やって来ない」という恐怖だったように私は思う。

生きることは本来自然現象であるのに、私にとっては生について考えていなければ生きていられない時代を
生きているように思う。なんだか変な話だ。
「生きることを忘れて生きている」というのは、私にとってある種の恐怖なのだろう。

ここまで書いて、私は自分自身の事を非常に残念だと思う。
これは本当に贅沢すぎる悩みであるからだ。
しかしそれもある意味、実際的に不便な昔の時代の、意味合いの全く異なる生きる苦しさと比べてであるので、
贅沢という言葉は適していないかもしれない。

命を生きる事が簡単すぎると、精神は思いもよらぬ方向に行くような気がするのだ。
人間らしさを思うとき、それは多くの人が「人間としての正しさ」を連想するだろうが、
そうではない、正しくない部分も含めて人間らしさをどこかで見つめていなければ、
命について冷静に考えることなど出来なくなってしまったように思う。
その「命について考える」という行為自体が、もう何だか違うだろ…という気持ちもあるのだが、
しかしそうはいかないのが今までの私の人生だったのだから仕方が無い。
教育的、道徳的な「生きる喜び」の教えが世の中にある限り、
それと対極にあるもの(ある種くだらないとも捉えられるもの)には
作家として(人間としてか)静かに向き合わねばならないと思っている。
おそらくそこに本質があるからだろうし、
それを必要としてる人がいるという事も自分の中では大きい。

だから誤解を恐れずに言おう。
予定が現実にならない事ぐらいは知っている。
だからこそ、生きる為に死ぬ予定(仮)ぐらいは自分で作っておきたいというのがきっと本音なのだ。
(…というのは寺山修司の本にあった言葉によく似ているけれど)
「ずっと絵を描き続けます」と最近胸を張って言えるようになったのはそのせいなのかもしれない、
と思う。
いつか最期があることは分かっているからどんな形であれ描き続けるだろうし、
どんな状況でも本能的に生きようとするだろう。

絵を描き終えるたびに確かな時を重ねていくことだ。
それで誰かと絵を通して時間を共有できればなお嬉しい。


自分の中にきちんと答えを見つけたので明日にはたぶん忘れます。
ここまで書いておいてどうかとは思いますが、
大事な事をずっと覚えていたところで、良い事なんて本当になんにも無いんだよなあ、、、

大事な事は無意識がちゃんと知ってる。という事を私は知ってる、のだ!


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F100号の「昼間に宿る」です。
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作家 : 大槻 香奈

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