KanaOhtsuki * One day One picture

■大槻香奈の日記■

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kiri


日本は技術大国と言われているけど、あと数年もすれば中国に追い抜かれる事は確実で、
それは日本の技術を盗む方法で発展していくとも言われていて、
そんな中で美術は何が出来るんだろうと思う。
何とかしなきゃいけない、という気持ちだけがぐるぐる…

色々考えてみても、日本の美術の本当の良さを日本人が一番知っているとするならば、
私はやはり一番に日本人に見て欲しい絵が描きたいと思う。
今の思いはそれだけで、上記に対する答えは今のところ出せないでいる。


それはそうと、先日ふと思ったのだけど

「売れないけど良いものは創れる」

って言葉、何となく日本人らしいような気がするのは何でだろう。
あくまで個人的に思う事だけど、米国とか中国だったらこういう言葉は出てこなさそうなイメージがある。
そこには創る側とそれを見る側両方の視点があるわけだけど。

これは謙虚を美徳とする日本の感覚でいえば良い意味にも、
単なる自分自身の甘えにも使えてしまう悪い意味にもとれる言葉。

売れなくっても良いものを創っていればそれでいいんだって、
何となく今まで私はそう思ってた、のかもしれない。
振り返ってみてそう思う。
でもそれってなんか違うんじゃないか?
少なくとも私がそれをやっちゃいけないんじゃないのか。

「売れないけど良いものは創れる」としても、
売れてるものを元を辿らずに否定するような気持ちは捨て去るべきであるし、
お金がしっかり回らなければ自分が住む町や国の為にも結果的に良くない。

絵を描く事をしっかりとした職業とせずに絵を発表し続ける事で、
それで叶う夢があって、私は今までずっとそんな夢を追い求めていたのかもしれないけれど、
それでは結局「夢の中で夢を見ているようなもの」である事に気付いた。
そうじゃなくて「現実世界で夢を見せる事」それが
絵のお仕事をしていく中での私の一番目指すべき事なのかもしれないと今思う。

良い形でお金を稼ぐ→世の中に貢献せねばと思うから私は売れるようになりたいです。

はじめてそんな事を思いました。
「売れたい」って言葉、今日何気にはじめて言った気がする。
自分でびっくりした。
これはなんか、恋をする瞬間のはっとした感じに似てる。
今まで大嫌いな言葉だったのに、これでしっかり覚悟できたような気がしました。
今まで売ることが嫌いなんじゃなくて、良い形で売る方法が分からなかっただけなんだな。
大事なのは、作品をどう気持ちよく人に渡していくかだ。
これは作品と絵に関わる人達みんなに対する愛だね。
気付いてよかった。


…でも、ややこしい話だけど最後に言っておく。
「売れるための作品」なんか、私は一生描くつもりないぜよ!!!!



おわり。

(なんか結局いつも同じ結論で終わってる)
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■NEWS(36)■ 大槻香奈個展 「すべてになるそのまえに」 neutron tokyo

DM-image.jpg


大槻香奈2010年個展情報です。皆様是非お越しくださいませ。
(今回の個展、作品についてのお問い合わせはneutron tokyoへお願いいたします)

***  

大槻香奈個展「すべてになるそのまえに」

neutron tokyo 
http://www.neutron-tokyo.com/index.html

2010年 2月24日~3月14日(月曜休)
★初日(2/24 水曜日)の18:00より、会場にて作家を交えてオープニングパーティー開催(無料)
☆最終日の展示は18:00までとさせて頂きます。

上画像:「命の塵」 2009年 / 97.0×130.3cm / キャンバスにアクリル・油絵具



:::

neutron tokyo

■所在地
〒107-0062
東京都港区南青山二丁目17-14

■交通
地下鉄銀座線「外苑前」駅より徒歩約8分、「青山一丁目」駅より徒歩約15分
※駐車場はございません。

■電話&FAX
03-3402-3021

■メール
info@neutron-tokyo.com

□営業時間 11:00~19:00
□月曜定休

20100118

yur


この写真もう一昨年になっちゃうのか。。はやい。
小4だった彼女も小6。春には中学生。制服着るんだーってびっくり!

私は小中学生の子供が好きでその理由をあげるとしたら、
話をしている時、同じ人間として見た時に素直に尊敬してしまう事があるからなのだけど。
それに加えて自分よりはるかに年下であるという事実が
自分の背中を押してくれるからなんだなあと気付いた。
子供と接すると、無言で叱られたり尊敬されたりする。

大人っぽいひとは子供であっても大人っぽくて、
子供っぽいひとは大人であっても子供っぽくて。
それぞれよくて、大事なのは自分が素直でいることだねって思う。

わたしはずーっと子供っぽいんだろうなあ。
今でも20歳に間違われます。
高校卒業してから何年?って聞かれ方をいまだにされます。
本当は年相応に見られたいのだけど。笑

わたしは30代からの人生がとても楽しみ。
今やれてない事、きっと出来てるんじゃないかなあ。
その為にがんばろう。

東京個展も来月24日から!もうすぐだ!

ofuro-no-tobira

furo no tobira


「自然を大切にしましょう」という言葉は、いつどのような時に使うものなんだろうか。

この言葉は小学生のとき、夏休みの宿題のひとつであるポスター制作のお題であった。
自然に対して「大切」という言葉を結びつけた状態で、じゃあ描いてください、みたいな。
そうじゃなくて、そこは私に考えさせてくれよ、っていう嫌な感じがいつもあった。
教育って難しいなあと思うのだけど、話が脱線するので今日はそれについての話はしない事にする。
どんなものを描けばいいのか半分わかった状態で、そこで個性を出せとかそんな事言われても…
というのが素直な気持ちだった。

そういえば寺山修司の本に(うる覚えだけど)
「戦争」にはいつも「反対」という言葉がついてまわるので、
一度それを切り離したところで戦争というものを考えてみたい(?)
みたいな事をかいていて、なんだかそれを思い出した。

そこで最近、私が仕事をしていて個人的に気になるのは
「アート」と「不況」という言葉の距離が非常に近く、色んな場所で
その言葉がセットになって囁かれているのを耳にしていることだ。
つまりは、不況でアート作品が売れなくなっている、ということ。

良いアート活動をしようと思う事、良い作品を創ろうという気持ちは、
日本の状況がどうであれ、作家である私自身にとっては本来あまり関係の無い事なのだけど。
あえてその「アート」という言葉を「不況」という言葉から切り離して、
アートの可能性について日ごろ考える事が多いです。

不況→ものが売れない→アート界のダメージ→ギャラリーの危機→どうするか
という売り上げの現実とは別に、
ギャラリーが無料で作品が見れる場所であるのならば、
もっと幅広く人を受け入れる場所となる可能性があるはずだと思うのですが、
しかし何故かそうならないのは、何か考え方が狭いからなんじゃないのかと思う。
それは果たしてなんだろうか。


例えば、アートが人のためにあるのならば、小中学生はギャラリーに行きたいと思うだろうか。
子供を対象としたワークショップとかでなく、何かギャラリーへ「もの」を見に行きたいと思うだろうか。

頭の中でギャラリーに来ている人をイメージしてみる。
実際のそれらは自分の想像の範囲内で留まってはいないだろうか。
自分にとって、自分の作品を観に来るのが意外な人は何人ぐらいギャラリーに来てくれているだろうか。

アートを知らない人がどれだけ自分の作品に触れてくれるのだろうか。
またギャラリー側は、作品の売買以外のところで、作品を通してお客さんとどのような会話をするのだろうか。


そしてその疑問を追うと同時に、ものづくりをする自分が進化するイメージと、
社会その他自分を取り囲むものが進化するイメージをも持っていなければ、
結局「良い作品ができましたよ、ギャラリーに展示しますので誰か見てください」
という、ただそれだけのところにとどまってしまう。
それは自分のしたい事とは少し違うような。。

それを乗り越える第一歩として、
作品を展示するギャラリーについて、またアート界のあり方について
自分がなるべくアート界に近いところに寄り添って、
新しい提案・挑戦を少しずつしていけたらと思う。

それとは別に、自分の好きなように、自分の企画で個展やイベントも今まで通りやりたいとは思っているけれど。
アート界に足を突っ込みたいと思うのは、やはりそれが自分の作品が社会に直接関わる
ひとつの方法だと思っているから。
何か自分が新しいアートのあり方を打ち出さない事には、せっかく人に伝えようとして創った作品たちも
世にしっかりと出ないまま終わってしまう可能性が高い。
それでもいいのか、いやいやそれはやはり哀しい事なのではないか…

作家としてのエゴと、社会を良くしたいという思いは紙一重だなあと、いつも思います。



以上、結論の無い今日の考え事でした。



[例えが悪いかもだけど、暴走族が一般社会に反した事をしている割に
彼らはその中での上下関係や規則をきちんと守っているのと同じように、
アートを通して社会を変えようと意欲的になっている美術作家が
美術業界を受け入れて生き残っていこうという姿勢が見えたときの不思議さは、
なんか似ている。 ]

明けまして日記

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明けてしまいました。
お年始状下さった方、ありがとう御座います。
今年は喪中でして、全員の方にお知らせできず申し訳御座いませんでした。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

年が明けたからといって何が変わるわけでもなく(ただし年明けて1キロ太った)
変わらない日常を過ごしています。

絵も相変わらずずっと描き続けていますが、ここにきて引っかかることは
やはり今の世の中にあるアートのあり方ってなんか変だなあということで。
たぶんその違和感を感じているのは私だけではないですが、
この話はまたいつか…まとまった時にでも書いておこうと思います。

とにかく今わたしが感じている事は、
誰かのために動きすぎると世の中は動かないっていう切なさです。
そのかわり、誰かのために動くと世界はきっと変わるんだろうなと思うけれど。
「世の中」と「世界」のニュアンスって、うまく説明できないけどなんだか全然違う。
どちらも素敵なものであって欲しいと思うけど、両方の理想を叶えるには自分は小さすぎて何も出来ない。
自分の役割としては、絵を通して世の中が変わるお手伝いをするほうが向いてるのかなあと思います。


いま個展の絵を描いているのですが、これは…
白いです。
言葉がそれしか出て来ないけど、なんだかとっても白い絵。


それと関係あるのかどうか分からないけれど、最近自分の中に何も無い事に自分で驚いています。

ただし無感動って訳でもなくて、どう言っていいのか分からないのですが。
喜怒哀楽はあるけど、それらが自然すぎて自分の中の印象に残らないというか。
「頑張ろう!」みたいな、自分の意識を引っ張り上げる様な意気込みもあまり無くて、
その割には実際仕事しすぎってぐらい働いてると思うし…なんか変な感じです。
自分の中のネガとポジが無くなって、心がその真ん中にずーっといる感じ。



「無くなる」といえば、個人的ではありますが
昨年の3月にやった「生み出す無」という自分の個展を思い出します。
(その時のコンセプトは↑リンクより辿っていただくと書いてありますので読んでください)
簡単に言えば私はその時の個展で「自分の中に無を見つける」という挑戦をしていた訳であったのですが、
そこでは「無」という本来実態の無いものに対して「生み出す」とか「見つける」
といったような行為と結びつけていたためにおかしな矛盾を抱えておりまして、
それはそれで良いんですが、
とりあえずナチュラルな無を表現していた訳ではなく、
その時無心で描いた絵であったとしても、
とにかく意図的である無(たぶん、願いとか祈りに近いようなものかな)であった事は
間違いないんじゃないかなあと。
振り返ってそんな事を思うのですが。

ところが今、個展を目の前にして自分の中にあるそれは、ほんとうに何も「無」い感じです。

何かを強く求める事もしていないし、自分自身も含め、失う事を怖いと思わなくなったような。
空でも海でもなく、地平線のポジションにいるような気分。
空模様が変わろうが、海では波の様子が変化しようが、ずーっとまっすぐ。

この感じはとても気持ちよくてすがすがしい反面、
結局ずーっとこのテンションでいると今後色んな仕事や人間らしい関わりや生活が絡んでくると
周りがそうさせない事も何となくわかっているし、
まあ…そうなった時はしょうがないよねっていう。
そんなわけで、気持ちよいのとしょうがないよねっていうふたつがあって、
私の気持ちはプラマイゼロです。




そういえば「地平線」って名前はついてるものの、言ってみればただの境界線で、実態は何もないよね。
なんだか自分みたいな。
自分以上のものもそれ以下のものも、この世にはきっと無いのかもしれませんね。
というか、実際そうなんだろうなあと思いました。




さいきん少し興味がでてきたのは、紙と鳥です。あと、ちゃわん。

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作家 : 大槻 香奈

Author:作家 : 大槻 香奈
美術作家/イラストレーター
お問い合わせは以下の大槻香奈Webサイトよりお願い致します。

http://ohtsuki.rillfu.com

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